漫才の中に「キャラ漫才」というジャンルがあるようです。意味を簡単にまとめるなら「特定のキャラクターを演じて行う漫才」とでもなりましょうか。
「特定のキャラクター」は基本的には自由なわけで、特徴的なキャラクターをただ演じる人もいれば更に特徴的な格好をする人もいます。そうすると往々にして普通じゃない格好や言動をネタ中にする形になりまして、必然的にボケがその役を担うことが多いようです。例えば、「オードリー」ですとボケの春日さんは常に胸を張るあの例のキャラクターをずっと演じ続けるわけです。もちろん、ボケもツッコミもキャラクターに扮するパターンもございまして、ウィキペディアに画像が乗っている方ですと、例えば「たぬきごはん」というコンビは両方ともキャラになりきる形をとっております。
衣装からして何らかのキャラクターになりきっていることがお分かりいただけるかと存じます。ボケのほりゆうこさんが「この辺りの大地主、西園寺家のひとり娘」を自称する「西園寺綾雨」を演じ、ツッコミの宍倉孝雄さんが「お付きのシシクラ」を演じて彼女の執事的役割を担います。お嬢様過ぎて世間一般に知られているものを全く知らないボケに対して、お付きのツッコミがピントのズレた解説をするネタを得意としておりまして、M-1では2015年こそ2回戦で敗退したものの2016年はこの形式で準々決勝に進出するという近年伸び盛りの実力者であります。また、キャラクターの管理も割ときちんとされているようで、ツイッターのアカウントも芸人用とキャラ用をふたりともそれぞれ持っているという徹底ぶりであります。
「キャラ漫才」という形式自体はそこまで新しいものではないようで、「髭男爵」のおふたりなんかそのものずばりですし、解散をしてしまいましたが「ビーグル38」の漫才はふたりがご老人に扮するものであります。
こうなるとひとつの疑問が出てくる方もいるようです。「コントと何が違うの」と。これを説明するためにはコントと漫才の違いについて整理しておく必要があるので、まずはふたつの違いについて書いてみます。
漫才とコントの違いは何かと申しますと、個人的には「終始役に徹するかどうか」、もっと端的にまとめるなら「劇かどうか」だと思っております。劇なのがコント、そうでないのが漫才であります。
出典がウィキペディアで恐縮ですが、コントは元々フランス語で「寸劇」を意味しまして、それがいつの頃からか笑わせる劇を呼ぶようになったようです。劇なので基本的に演者は与えられた役を全うし、そこからはみ出ることはありません。そして、劇なので暗転・明転、小道具・大道具、音楽に効果音と、劇でよく用いられるものを駆使することも往々にしてございます。
一方の漫才は寄席の演芸が発祥のようでして、最初は三味線などの楽器を演奏しながらネタをおこなっていたようです。それがいつしか喋りメインになった。演芸なので基本的に漫才師として舞台袖から出て来て、漫才師として舞台袖に消えて行きます。何かの名残なのか舞台の中心にセンターマイクが置かれることもあります。劇ではなく演芸なので場面転換も音もしばしば自分たちでどうにかする必要がありまして、喋りで話題を変えたり楽器を演奏したりする漫才も見られます。
これが漫才とコントにおける一応の違いではあります。しかし、ややこしいことに漫才中、「コントに入る」という行為が非常によく行われます。以前、当ブログにも書きましたが、漫才としてネタが始まるのに、途中でいきなり喫茶店の店員と客になって喫茶店のコントを始めたりします。この場合でも、ネタの節々や終わり間近になると漫才に戻るという点で漫才と判断することができるかと存じます。もちろん、コントの場合は最初から最後まで役に徹します。
さて、「キャラ漫才」の場合はどうか。漫才って言ってるくらいですから漫才なのでありますけれども、なぜ漫才と呼ばれているのか。結論から言えば形式が漫才だからだと思います。舞台袖から出てきて舞台袖に去ってゆく、舞台効果を最低限しか用いない、などなど特徴は漫才そのものであります。
ただ、「舞台上でキャラになり切っている」という点がコントと共通するため、判断がやや難化するのだと思います。それも、ややこしい表現になりますが、「キャラになり切ったままコントに入る」ということが多いため、漫才に入れるのが妥当と考えられます。例えば、王様の格好をした「王様キャラ」が「一度でいいからコンビニ店員をしてみたい」と言ってコンビニのコントに入る、みたいなものです。
そもそもが漫才もまた、多かれ少なかれ演技をするわけです。本当は怒ってないけど、笑いが取れるからネタ中に怒っているフリをする。実生活ではやらないけど、ツッコミと称して相方の頭を叩く。暴れる、驚く、叫ぶ、喚く。演戯をしてるからコント、なんて言ったら漫才が全部コントになりかねません。それに、カンニング竹山さんみたいに自身が本来持っている性格を活かしてキャラにするタイプの方もいらっしゃるわけで(こちらのサイトを参照)、こうやっていろいろ考えると線引きが難しいところではありますが、「キャラ漫才」は漫才の体裁を取っているのでやっぱり漫才に入れたほうがいいのでしょう。
まあ、お笑い芸人としては重要な「面白いかどうか」とは関係がない話ですけれども、なんか気になったので書いてみた次第であります。
「特定のキャラクター」は基本的には自由なわけで、特徴的なキャラクターをただ演じる人もいれば更に特徴的な格好をする人もいます。そうすると往々にして普通じゃない格好や言動をネタ中にする形になりまして、必然的にボケがその役を担うことが多いようです。例えば、「オードリー」ですとボケの春日さんは常に胸を張るあの例のキャラクターをずっと演じ続けるわけです。もちろん、ボケもツッコミもキャラクターに扮するパターンもございまして、ウィキペディアに画像が乗っている方ですと、例えば「たぬきごはん」というコンビは両方ともキャラになりきる形をとっております。
衣装からして何らかのキャラクターになりきっていることがお分かりいただけるかと存じます。ボケのほりゆうこさんが「この辺りの大地主、西園寺家のひとり娘」を自称する「西園寺綾雨」を演じ、ツッコミの宍倉孝雄さんが「お付きのシシクラ」を演じて彼女の執事的役割を担います。お嬢様過ぎて世間一般に知られているものを全く知らないボケに対して、お付きのツッコミがピントのズレた解説をするネタを得意としておりまして、M-1では2015年こそ2回戦で敗退したものの2016年はこの形式で準々決勝に進出するという近年伸び盛りの実力者であります。また、キャラクターの管理も割ときちんとされているようで、ツイッターのアカウントも芸人用とキャラ用をふたりともそれぞれ持っているという徹底ぶりであります。
「キャラ漫才」という形式自体はそこまで新しいものではないようで、「髭男爵」のおふたりなんかそのものずばりですし、解散をしてしまいましたが「ビーグル38」の漫才はふたりがご老人に扮するものであります。
こうなるとひとつの疑問が出てくる方もいるようです。「コントと何が違うの」と。これを説明するためにはコントと漫才の違いについて整理しておく必要があるので、まずはふたつの違いについて書いてみます。
漫才とコントの違いは何かと申しますと、個人的には「終始役に徹するかどうか」、もっと端的にまとめるなら「劇かどうか」だと思っております。劇なのがコント、そうでないのが漫才であります。
出典がウィキペディアで恐縮ですが、コントは元々フランス語で「寸劇」を意味しまして、それがいつの頃からか笑わせる劇を呼ぶようになったようです。劇なので基本的に演者は与えられた役を全うし、そこからはみ出ることはありません。そして、劇なので暗転・明転、小道具・大道具、音楽に効果音と、劇でよく用いられるものを駆使することも往々にしてございます。
一方の漫才は寄席の演芸が発祥のようでして、最初は三味線などの楽器を演奏しながらネタをおこなっていたようです。それがいつしか喋りメインになった。演芸なので基本的に漫才師として舞台袖から出て来て、漫才師として舞台袖に消えて行きます。何かの名残なのか舞台の中心にセンターマイクが置かれることもあります。劇ではなく演芸なので場面転換も音もしばしば自分たちでどうにかする必要がありまして、喋りで話題を変えたり楽器を演奏したりする漫才も見られます。
これが漫才とコントにおける一応の違いではあります。しかし、ややこしいことに漫才中、「コントに入る」という行為が非常によく行われます。以前、当ブログにも書きましたが、漫才としてネタが始まるのに、途中でいきなり喫茶店の店員と客になって喫茶店のコントを始めたりします。この場合でも、ネタの節々や終わり間近になると漫才に戻るという点で漫才と判断することができるかと存じます。もちろん、コントの場合は最初から最後まで役に徹します。
さて、「キャラ漫才」の場合はどうか。漫才って言ってるくらいですから漫才なのでありますけれども、なぜ漫才と呼ばれているのか。結論から言えば形式が漫才だからだと思います。舞台袖から出てきて舞台袖に去ってゆく、舞台効果を最低限しか用いない、などなど特徴は漫才そのものであります。
ただ、「舞台上でキャラになり切っている」という点がコントと共通するため、判断がやや難化するのだと思います。それも、ややこしい表現になりますが、「キャラになり切ったままコントに入る」ということが多いため、漫才に入れるのが妥当と考えられます。例えば、王様の格好をした「王様キャラ」が「一度でいいからコンビニ店員をしてみたい」と言ってコンビニのコントに入る、みたいなものです。
そもそもが漫才もまた、多かれ少なかれ演技をするわけです。本当は怒ってないけど、笑いが取れるからネタ中に怒っているフリをする。実生活ではやらないけど、ツッコミと称して相方の頭を叩く。暴れる、驚く、叫ぶ、喚く。演戯をしてるからコント、なんて言ったら漫才が全部コントになりかねません。それに、カンニング竹山さんみたいに自身が本来持っている性格を活かしてキャラにするタイプの方もいらっしゃるわけで(こちらのサイトを参照)、こうやっていろいろ考えると線引きが難しいところではありますが、「キャラ漫才」は漫才の体裁を取っているのでやっぱり漫才に入れたほうがいいのでしょう。
まあ、お笑い芸人としては重要な「面白いかどうか」とは関係がない話ですけれども、なんか気になったので書いてみた次第であります。